東日本大震災の記憶

 2011年3月11日は今も鮮明に覚えている。11日は金曜日だった。私はバンコックにいた。APRU(環太平洋大学連合)のシニア・スタッフ・ミーティングがチュラロンコン大学で開催されており、その日は最終日で午前中にウィンマンメーク宮殿を見に行くプログラムが用意されていた。宮殿からの帰りにホテルに戻るとなにか、日本で大変なことが起こっていると誰かが話している。私の飛行機は深夜に出るので、ホテルの部屋はレイトチェックアウトにしてあった。部屋に戻るとテレビで日本で大きな地震があったとのニュースが流れている。ロビーには、すでに成田行の飛行機に乗られているはずの東北大学からの3名の方もおられて、昼の飛行機を取っていたが、キャンセルになったという。チェックアウトされて部屋もないとのことで、私の部屋を使ってもらった。あとで聞いたことだが、何とか、翌週日本までは帰ったものの、東京から仙台に行くことが出来なかったとのことだ。

 私と言えば、携帯電話で京都大学の国際交流センターの課長補佐のMさんに電話をして善後策を話合った。まずは留学生の安全確認がもっとも大事な仕事である。国際交流センターが所管する留学生の安全確認をお願いし、各部局に属する留学生の確認は各部局で行うことにした。幸いなことに確認は順調に進んで翌週の初めにはほぼ確認をおえていた。

 被害にあった留学生はいなかったが、残念なことに、全学では日本人学生3名が仙台空港で津波に巻き込まれ亡くなっていた。レンタカーを律儀に返しに行って大事な命を失うことになってしまったという。

 私の飛行機は関空向けだったので、キャンセルにならなかった。ただ飛行機を待つのロビーのテレビは東北の津波の様子を伝えていた。まるでハリウッドのSF映画のような画面が現実とは思えなかった。                  


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